ガスの起源
ガス燈への転換
世界のガス会社設立
日本でのガス燈事始
日本のガス会社設立
おまけ マントルの説明
ガスの起源
ガス燈に使われ始めたのは、石炭ガスです。発見者はオランダの科学者『ヴァン・ヘルモント』でした。
1640年、実験中に石炭を蒸焼きにすると発生する気体に‘ガス’と名づけました。語源は、ドイツ語の“Geist”(ガイスト)。霊とか精気を意味する言葉で、ギリシャ語の“Khaos”(カオス)混沌から生まれたもの、といわれてます。
天然ガスは、それよりもかなり昔から使われていた記録が残されています。
中国では、3000年ほど前に製塩用の燃料として使われていました。 そして、ソビエトのバクー、ゾロアスター寺院では、2500年以上にわたり礼拝や信者の火葬に天然ガスの炎を用いていたようです。
また、ヨーロッパでは、伝説や宗教の説語の中に「燃える泉」「永遠の灯」などといった名で、天然ガスは登場してます。
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ガス燈への転換
石炭ガスを照明に利用することを思いたったのは、イギリス、スコットランド人技師『ウィリアム・マードック』でした。
実験に成功した彼は、1797年にマンチェスターの警察長官の家の外灯としてガス燈を取り付け、1802年には勤めていた工場内に小規模のガス工場を作り工場内の照明を行いました。ただ、次々と工場を建てていった彼の作ったガスは一般に使われるようにはならなかったということです。
マードックとは別に、1801年、フランスでは『フィリップ・ル・ボン』が「熱ランプ」と呼ばれるガス燈の点火に成功。 1806年には、アメリカ、ローランド州の『デビット・メルビル』がガス燈を開発し、11年後にプロピデンス市近郊の紡績工場に、ガス燈を取り付けました。
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世界のガス会社設立
特定な用途を対象としたのではなく、広く一般に供給した会社を設立したのは、ドイツ人の『フレデリック・ウィンザー』でした。 前項の『ル・ボン』の元に通いつめ、方法と技術を盗み取ったといわれています。
1807年にその知識を元に、ロンドンのポール・モール街に32基のガス燈を設置しました。 その後、各方面に働きかけ、1812年「ロンドン・ガス・ライト・アンド・コーク会社」を発足させました。
スタートした翌年、ロンドンのウェストミンスター橋にはガス燈が取り付けられました。
西暦 | 国名 | 地名・会社名 |
1812 | イギリス | ロンドン:「ロンドン・ガス・ライト・アンド・コーク会社」 |
1815 | フランス | パリ |
1816 | アメリカ | 「ボルチモア・ガスライト会社」 |
1819 | ベルギー | ブリュッセル |
1822 | アメリカ | ボストン |
1823 | アメリカ | ニューヨーク |
1825 | アメリカ | ブルックリン&ブリストル |
1826 | ドイツ | ベルリン |
1835 | ソ連 | セント・ピータースブルグ |
日本のガス燈事始
記録に残ってる一番古いガス燈といわれているのは、江戸時代、嘉永末から安政初めにかけて点灯した島立甫(玄澄)のもののようです。
造船に必要なテール(コールタール)を取る為に発生したガスを利用し、自宅の柱に竹管を取り付けて点灯させたようです。巷で評判にはなったものの普及することはなかったとのことでした。
対照的に鹿児島の島津斉彬は、安政4年(1857)に石炭を乾溜してガス発生の実験を行わせ、別邸の石灯籠の点火を成功させたということです。
そして、費用の見積もりなども立てていたほど綿密に、鹿児島全域にガス燈設置の計画を立てていたということでした。しかし、翌年の安政5年に急死してしまいガス燈計画もともに葬られてしまったそうです。
島津斉彬が亡くなってから13年後の明治4年(1871)大阪造幣局の敷地内、及び付近の往来にガス燈が設置されました。これは、貨幣の鋳造のために発生させたガスの照明にも利用したものでしたが、日本のガス街灯第一号となりました。見物人が絶えなかったそうです。
明治5年9月29日、神奈川県庁の本通りに十数基のガス燈が灯りました。ガス事業のスタートとなったこれらのガス燈はそれ以前のものと比べ大規模だったこともあり、点火された日は、ガス史、灯火史における歴史的な瞬間となったのです。
首都になった東京にではなく横浜につけた経緯があります。
当時の横浜には、外国人の居留地がありそこで生活しはじめた外国人たちは日本の夜の暗さに不便を感じ、ガス燈設置を切望していました。そんな彼らの望みをかなえようとイギリス人の、W・H・スミスがガス燈設置の計画を立て進めていました。時を同じくして、ドイツ商会のシキルツ・ライスもガス燈設置をしようと神奈川県庁にガス燈建設の申請を出しました。当時の県庁は考慮した結果、ドイツ商会の申請を採択するに至りました。
日本人の、高島嘉右衛門は、文明の利器の免許を外国人が握ってしまうと日本人が多大な損害を受けることになるだろうと考え、横浜の有力者8名と「日本社中」という会社を作りました。県庁は、ドイツ商会の申請を受けたものの日本の新会社にガス燈設置の免許を与えたのです。
こうしてフランス人技師、アンリ・オーギュスト・プレグランの協力を得て、苦労の末ガス燈設置、そして点灯に成功したのです。
明治5年の末には横浜のガス燈も300基に及び、東京にもガス燈設置を提案していましたが、東京府は受け入れず、東京会議所が東京府にガス燈建設の免許を願い出たのは、明治6年11月のことでした。
東京のガス燈計画は当初、吉原を想定していましたが、工事施工前に変更、京橋、金杉橋間にまず85基のガス燈が輝きました。これは、明治7年12月18日のことでした。ここでのガス燈建設で活躍したのもフランス人技師アンリ・オーギュスト・プレグランでした。彼の計画により東京のガス燈は翌8年には、京橋から万代橋、本町から分岐して浅草橋までと次々に点火されていきました。
一方関西では、大阪では造幣局では灯っていましたが、ガス事業ではなかったので、神戸が関西ガス事業第一号になりました。
神戸に設立されたガス会社、兵庫ガス商会はオランダ人、イギリス人、ドイツ人からなる商会で、居留地内のガス燈建設を許されました。明治7年11月16日に点火されたものの、居留地以外にガス燈を立てることは許されなかったようです。当時建てられたのは94基でした。今でも大丸北側の歩道、相楽園内旧ハッサム邸前、愛知県の明治村に保存されています。
関西のガス事業のスタートは、関東よりもぐっと遅れ、明治38年(1905)になり、「大阪ガス(株)」がようやく設立されました。
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日本のガス会社設立
マントルの誕生によって、日本のガス事業を活性化させました。(下図参照)
明治41年(1908)から、大正4年(1915)には91社となり、わずか7年の間に10倍以上に膨れ上がりました。
西暦 | 地名・会社名 |
1872 | 横浜・「日本社中」 |
1885 | 東京・「東京瓦斯会社」 |
1899 | 神戸 |
1903 | 長崎 |
1905 | 大阪 |
1906 | 福岡 |
1907 | 名古屋 |
1908 | 金沢 |
1910 | 豊橋、京都、広島、堺、仙台、浜松、門司 |
おまけ マントルの説明
マントルとは、綿糸または人絹などで編んで作った網袋に発光剤トリウムとセリウムを99対1の割合で吸収させたもので、ガスの裸火にかぶせることによって、その明るさを5倍にしてしまうものです。
発明したのは、オーストリアの『カール・アウエル・フォン・ウェルスバッハ』です。トリウム溶液に浸した綿糸をブンゼン燈にかざしたとき、偶然にも強烈な白光が放たれることを知った彼は研究に没頭するようになったといわれています。
彼の一番弟子『ハイチンゲル』がトリウム溶液に少量のセリウムを混ぜた場合、マントル発光力を著しく増大させることを発見しました。これが白熱マントルの基礎となり、1886年(明治19年)実験開始から10年目に白熱マントルはついに誕生しました。
ガス等の種類も、上向き・下向き白熱灯、ルーカスと呼ばれる大型灯など大小さまざまなものが作られるようになりました。
マントルを日本で使い始めたのは、明治27年(1894)の9月、横浜駅、横浜市内のホテル、そして上野駅でした。
明治32年(1899)の末には、輸入マントルに対抗すべく、国産マントルを試作しました。輸入マントルの材料・薬品を研究し、ラミー(植物ラミーの茎から作られる繊維)を材料に作り上げました。
田中マントルの完成から約3年後に、大野マントルが製作され始めました。大野マントルは、ラミーではなく、絹糸を原料としていたようです。
明治36年末から考え始め、翌年1月から約1年間、試作を続け、最初のマントルを‘タイガーマントル’と名付けられ、販売されました。
炎の色の違いが、初期のガス燈の裸火は黄色系でしたが、ガスマントルが使われるようになってからは白熱し青色状を呈するようになりました。 ちなみに、LNG(液化天然ガス)が使われている今日のガス燈の炎の色は、ホワイトレモンの色を放っています。
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